視線を受けとめてくれるものを、空間計画ではアイストップと呼ぶらしい。
視線の先に意識的に置かれたもの。
例えば、公園の動線上に配された噴水や、ビルの上の装飾。ヨーロッパでは、放射線状に伸びた通りのよきところに凱旋門が立っている。日本庭園の石灯籠や石塔も同じような役割を果たすとか。
屋内でも使う言葉だ。
ただいま、と玄関に立った時、何かが視線を受けとめてくれると、落ち着く。それはチェストに置いた観葉植物であったり、壁の絵であったり。視線がふと留まるところ-アイストップ-を得ると、人はほっとするようである。
そういえば家に帰った時、無人の部屋でもただいま、と言いたくなる場所がいくつかある。
人以外の目鼻立ちのあるもの(想像して下さい)にも帰宅の挨拶をするけれど、洗面所の鏡の前でもただいまと言いたくなる。
人以外の目鼻立ちのあるもの(想像して下さい)にも帰宅の挨拶をするけれど、洗面所の鏡の前でもただいまと言いたくなる。
これはまあ、ちょっと寂しい感じもしますが。
上りの新幹線の窓からこれが見えると帰って来たなあと思う |
絵を描く身でありながら、「なぜ壁に絵を飾るのか」ということを考えたことがなかった。
「なぜ絵を描くのか」という命題さえ概ね無意識の内にある。
宗教画のように、視線はもちろん鑑賞者の心の内を受けとめることを役割として生まれた絵がある。
ラファエロ展で観た聖母子像や肖像画の中には、視線をこちらに投げかけているものが少なくなかった。どれも端正でありながら冷たさがなく、美しい。これらの絵に室内で迎えられたら、と想像してみる。
聖地、というのとは違っても、誰にとっても、個人的な場所、というものがある。
近頃は絵などの代わりに、視線の先の壁に窓を穿つこともあるらしい。ともあれ意識的に配された「もの」が、最も個人的なスペース「家にいる」安心感を作り出す。
この絵も描き手以外の視線を受けとめることになるんだろうか。 描き上げた絵の前で、そんなことを考える。
『卯月』 |
銀座校講師 五十棲さやか
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