2013年6月8日土曜日

ことば


いつの頃からかわからないが、言葉に対するこだわりの有り様が、変わってきた。
ある頃までは、月並みな表現の中に真実はないと思っていた。


高校生の時初めて美術予備校ヘ行って、静物のデッサンをした。
モチーフのなかにコンクリートブロックがあって、予備校講師は私の描いたそれを「お豆腐みたい」と評した。
家族にその話をすると、「つまり、質感が無い、ということだな」と父が言う。いや、ちょっとそれとは違うんだよなあ、と思ったのを覚えている。質感が無いとか、そういうよくある言い方では表せないの、そうじゃないの。
世の中でよく人々が使っている言いまわしは、―そもそも言葉は記号に過ぎないとしても―
どうにも自分の感じる現実とは違うという感覚があった。
「張りのある声」とはどんな声か、「傷つく」とはどういう感覚か、また「美」だとか「青春」なんて、本当に存在するんだろうか。
それがこの頃は、月並み表現を平然と使えるようになってきた。 諦めなのか、鈍化なのか、まさか成長か。


「健気な」、「たくましい」とは「不如意」とは、まさにこれだ!と実感することさえある。

絵を作品として描くようになって、絵の題を考えることが日常になった。私の場合は、先にタイトルが存在するケースも多い。そのせいもあるのだろうか。
そして、絵画教室の講師という仕事を得られたこととも、無縁ではないだろう。 ああ、無縁ではない、だなんて、以前は絶対に使えなかった!



名状し難い感覚の表現が絵画であったり立体作品であったりするのだと思う。それが音楽や映像やダンスという人もいるだろう。
いやしかし待てよ、それを文学でやっている人というのもいるのじゃなかろうか。
小説家や、歌人は、ひいては論文で持論を展開する研究者は、そこら辺での葛藤はないのだろうか。本当に言いたいことと、ちょっと違うんだけど、という感覚は。



偶然が助けてくれることもあるのかな




今でも「癒し」などという言葉は信用できないので使いづらい。「個性」はやむを得ず使う。
疑わしい言葉は他にもある。「ゆとり」「暮らしの中の知恵」とか。
言葉無しでは生きられない。
私の場合はたぶん、絵も描けない。
考えると眠れなくなりそうだ。

銀座校講師 五十棲さやか

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