ざわざわと葉を重たげに揺らす欅。 梅雨の晴れ間、一人。とても静か。
こんな日は、生きていたいなあと思う。健康で、もう少し生きたい。
あの絵もこの絵も、描きかけだ。
食卓で手を合わせて、いただきますというかわりに、「錠剤っ」と念じたこともある。
日に3食、考えて作って食べて片付けて、考えて作って食べて片付けて、の繰り返しがたまらなくしんどくなって、いっそ食事が錠剤3粒かなんかで済むようになればいいのにと思ったのだ。
発想が幼稚でもなんでも、その時はわりと本気でその方面(どの方面だろう…)の技術革新を願った。
一旦離れた親元で暮らし始めて、もうすぐ4ヶ月になる。最初は非日常的な気分があり、やがてこれが、紛れもなく自らの日常だとわかるようになる。
季節はただ過ぎに過ぐる。
錠剤にはならないから毎度台所に立つ。食べることを軸に家族の時間が回っていく。
国吉康雄という画家は16歳で単身渡米したという。同じ年、高村光太郎は奨学金を得てパリに向かっているが、国吉は移民として彼の地に渡った。
果物摘みなどの仕事の傍ら絵を学び、ほとんど日本に帰国することもなくアメリカで絵描きとして立つようになる。
異国で。16歳で。一人で生きるという感覚は、彼においていかほどのものであったか。そのクリアさを想像する。
先日観た国吉の展覧会には、ごく初期の人体デッサンが展示されていた。実に巧く、とげとげしく、モデルへの客観的な視線が印象的だった。
後年の、代表作といわれる女性像では、描き手はモデルにどっぷりと感情移入している。モデルが画家自身となって、観るものに物語る。
絵は変わっていく。
展覧会場にあった国吉のドローイングボード
撮影可能エリアにて
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小玉西瓜を買って帰って、と家族からメールが入る。
国吉にも西瓜を描いた横長の静物画があったな。西瓜は隠喩でもあるらしいが、かすれた味わいの絵肌と色彩とで、ただ絵画としての魅力を放っていた。
私は誰と生きていて、それがどんな風に絵に反映するのだろう。人ごとのように考える。
銀座校講師 五十棲さやか
(展覧会は終了しています またの機会に)
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